味の素グループの歩み

社名を味の素(株)に改称、会社解体の危機を回避

終戦翌年の1946(昭和21)年2月28日、味の素社は社名を大日本化学工業(株)から、現在の味の素(株)に改称し、同時に株式を一般公開しました。

味の素(株)の株式立会風景

これには、終戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部:General Headquarters)による日本の民主化政策(財閥解体、農地改革、労働組合の育成など多方面な政策)が大きな影響を与えています。

大日本化学工業(株)は、財閥としての指定をされると種々の制限を受け、経営上不利な立場に立たされるとの懸念から、あらかじめいくつかの措置を取ることとしました。
その第一の措置が、会社名の変更です。

1943(昭和18)年5月20日に軍部の指導により、鈴木食料工業(株)から大日本化学工業(株)という会社名に改称していましたが、戦後の再出発にあたり、主力商品名の「味の素®」を入れ、鈴木の名を除くことで、同族会社のイメージを払しょくしようとしたのです。この時の会社名候補としては、次の13案ありました。

「鈴木食料(株)、味の素工業(株)、味の素食料(株)、味の素食料工業(株)、鈴木味の素(株)、鈴木食料工業(株)、味の素本舗(株)鈴木商店、(株)味の素本舗鈴木商店、(株)味の素本舗、味の素本舗(株)、第一食料工業(株)、新日本食料工業(株)、味の素(株)」

結局、先の理由で味の素(株)が選択され、1946(昭和21)年2月28日の株主総会で正式に決定され、同年4月に登記されました。

大株主の変遷:1946年6月には鈴木三栄社および鈴木家の持ち株数が44.7%あったのが、3年後の1949年6月には約7%まで減少した

第二の措置が、株式の一般公開です。
これは、味の素社の持ち株会社であった鈴木三栄社から鈴木一族が引退し、同時に鈴木三栄社の保有していた味の素社株を、主な従業員へ売却する事でした。

株式の公開は、1946(昭和21)年6月から12月にかけて実施されました。この時処分された株式は、鈴木三栄社が保有していた旧株と新株合わせて302,500株で全株式の33.6%でした。
これにより1946年6月末で113名であった株主数は、同年12月末には、898名に増加し、1948(昭和23)年11月、1949(昭和24)年5月には増資を行い、新株は役員、従業員等に割り当てられました。
更に、1949年5月に株式取引所が再開されると、味の素㈱も上場し、同年6月末における株主数は5,885名と大幅に増加しました。

この株式売却と公開により、株式保有の面から、味の素社の同族支配的側面が薄れてきたと言えます。

三代鈴木三郎助

第三の措置は、三代社長、三代鈴木三郎助の退陣でした。
三代三郎助は、味の素社が地方財閥として指定されるのではないかと不安を抱いていた矢先に、GHQから「味の素社、鈴木三栄社、昭和農産化工社に関する全ての書類を提出せよ」との命令を受けました。

悩み続けた末の結論は、鈴木家の家長である自分が、社長を退陣していれば、味の素社は財閥社としての指定を免れることができるのではないかと考えました。こうして1947(昭和22)年5月19日、後事を専務取締役であった道面豊信に託して社長を辞任しました。

こうして、財閥解体の適用除外を目指して、重要な対策を行った当社でしたが、1948(昭和23)年2月8日に過度経済力集中排除法(集排法)の指定を受けることとなりました。このため当社は、説明書を提出しました。その内容は、味の素®のシェアは、創業時は100%であったが、その当時は群小の同業者が多数現れ、44%になっており、他の同業者の競争を不可能にするほどの産業支配力は有していないというものでした。それにも関わらず同年5月、当社は過度の経済力の集中と決定されました。

しかしその後、米ソ冷戦の深刻化によるアメリカの対日政策転換により、集排法は大幅に緩和されることとなり、当初325社だった指定企業は、28社のみとなりました。最終的には、同年11月19日持株会社整理委員会より、当社に集排法指定解除の連絡があり、これにより当社は、解体の危機を免れることとなったのです。

なお、GHQは、労働組合運動の育成を、経済民主化の重要な一環と考えていましたので、労働組合法を1945(昭和20)年12月に制定することを指導しました。この結果、各企業・工場で爆発的な勢いで労働組合が結成されることとなります。当社の労働組合は、1946(昭和21)年1月25日に川崎工場において初めて結成されました。これに続いて2年間の間で、横浜工場、本店、佐賀工場でそれぞれ労働組合が結成されました。