味の素グループの歩み

「味の素®」はこうやって広まった!~鈴木三郎の広告・販促活動

世界で最初のうま味調味料「味の素®」は、1909(明治42)年の5月に、生活者向けに発売されました。「味の素®」を生活者に知って、購入してもらうための活動、広告・販促活動は、二代三郎助から、その長男である鈴木三郎(のちの三代三郎助、1890-1973年)に委ねられていました。

発売当時の新聞広告

世界で最初のうま味調味料「味の素®」は、1909(明治42)年の5月に、生活者向けに発売されました。「味の素®」を生活者に知って、購入してもらうための活動、広告・販促活動は、二代三郎助から、その長男である鈴木三郎(のちの三代三郎助、1890-1973年)に委ねられていました。今回は、エピソードも交えて、その活動内容を見ていきます。

広告・販促活動では新聞広告に最も力を注ぎ、「味の素®」の発売開始6日後の「東京朝日新聞」に初めての広告を掲載しました。“理想的調味料”“食料界の大革新”の大見出しで、「味の素®」の特長を説明しました。その後も月に1回のペースで掲載しましたが、洋菓子、ビールなど他の食料品広告が増えたことから、1910(明治43)年からは掲載回数を月3-4回に増やしました。

チンドン屋による宣伝活動

次に、チンドン屋による宣伝活動を行いました。新聞の全面広告より安上がりで、効果的でした。楽団を先頭に、「味の素®」と染め抜いた旗を5-6本から10本押し立てて街をねり歩き、街角で「トザイトーザイ『味の素®』は・・・」と、その効果を声高に宣伝し、ビラや試用品を配りました。印ばんてんを着た三郎が、鰹節屋の前で「『味の素®』があれば、昆布や鰹節はいりません・・・」と大声を出したときは、店の主人が飛び出してきて怒鳴られ、慌てた三郎は、とっさに「鰹節のだしに『味の素®』をほんの少し入れるだけでうま味が倍増、鰹節の味が格段に引き立ちます」と切り抜けましたが、50年以上経って、うま味の相乗効果が証明されることになります。

多くの人目につく看板も重要でした。「味の素®」発売直後からさまざまな種類の看板が作製・設置されました。三郎は、全国で積極的に「味の素®」の看板を掲げてもらうため、1922(大正11)年に東京本店と大阪支店に「看板班」を組織しました。二人一組で4班が、取り付け器具などを積み、アメリカのハーレーダビッドソン社のサイドカー付きオートバイで全国を巡回しました。また看板班は、地方の出張所や販売店の協力を得て、鉄道沿線の立て看板などの設置業務も担いました。

短冊形の町名入り看板

看板班の専用オートバイ

地上スタンプ

失敗した事例ですが、三郎が考案したユニークな「地上スタンプ」がありました。底部の平らなゴム引きの布袋に石灰を入れ、路面に下ろすと底部に開いている小穴から石灰がこぼれ出て「ダシノ・オヤ玉・アヂノモト」という文字がしるされる仕掛けです。奇抜さから漫画雑誌にも載って話題になりましたが、まねをする者が次々と現れ、路面を汚すという理由で東京市から禁止令が出て、中止を余儀なくされました。

このように、現代にも通じるような広告・販促手法で、初期の「味の素®」の販売を盛り上げたのです。